藍色の月。
琴の音色。
風の歌。




美月竹国の若き主、美弥乎姫は御記帳の内で、琴の調弦を扱っていた。
白く小さな指先が、細い弦を優しくつまはじく。
月の光がこぼれ落ちる音に似た、旋律を伴わない琴の音色が、今の唯一の友であるかのように姫と笑い声を交わしている。



月明かりに翳りがさした。
御簾がかすかに揺らめいた。



藍色の空を、銀色の翼が翔る。
月明かりの下の姫君は、御簾の外に出て空を仰いだ。



「こんばんは、小さな姫君。ご機嫌麗しゅう」



銀の竜に乗った異国の赤髪の殿方が、絵巻草子から抜け出してきた貴人のような美しい微笑みで姫を見下ろしていた。



「お待ちしておりました。よろずや様」



*



「・・・こういうわけで、現在、僕の相方レフラはユグドラーシル学院に留学しています。ルルーナさんとも接触できたようなので、お求めの『螺旋の指輪』も返還され次第すぐお渡しできるでしょう。
 もっとも、『指輪』を受け取るには、僕がレフラの元へ行かなくてはならないのですが、それは問題ありません。ご安心ください。
 姫のご要望の期日までには十分間に合います。今しばらくお待ちいただければと思います」


座敷の片隅では、行灯の火が、温かい橙色を揺らめかせながら、話し合う二人の姿を包み込んでいた。
姫はいつもと何も変わらない。穏やかな微笑みで、エクセルの話に耳を傾けている。


訪れたのは、今回はエクセル一人。
それは仕方ない。レフラは今、ユグドラーシルへ”留学”しているのだから、さすがに一緒に来るわけにはいかない。
エクセルは、今宵は、美弥乎姫のもとへ、依頼の中間報告に来ていたのだ。


まず、美弥乎姫が、『螺旋の指輪』を預けたという、ルルーナ嬢と会ったこと。
そして、ルルーナが今も『指輪』を所持していること。
話を聞き、ルルーナは『指輪』を返還する意思があるということ。
しかし、レフラが今、”留学”しているという立場上、すぐさま『指輪』を届けることが難しいということ。
以上。


「ご丁寧に、どうもありがとうございます、よろずや様」

「いえいえ。姫様の方こそ、東の国の自治が現在何かと改革が進められている中で、ご自身の国の方も大変そうですね」


姫君にひけをとらない、にっこりと穏やかな――したたかな笑みが挨拶に代わる。


「ところで姫君、差し支えなければ一つ、ご質問したいのですが」
「まぁ、何でしょうか、竜の御方」

「――『螺旋の指輪』と名をお聞きしますが、あれは、本当は”指輪”の形などしていないのでしょう?」


美弥乎姫の微笑みが、少しだけ、意味深に翳った。
あどけない黒曜石色の瞳。奥が見えない深い色。


「よければ教えてくださいませんか『指輪』の正体を」
「まぁ・・・困りましたわ。それはお教えしなければ、指輪のお受け取りに差支えが生じるのでしょうか、よろずや様」


姫君は、扇をかざして口元を隠す。まるで、苦笑いをごまかすかのように。
エクセルもまた、苦笑でかわす。


「いえ、ただの好奇心でした。ご無礼を申し上げたのなら、お許しいただきたい」



・・・女性を困らせてしまうわけにはいかない。
エクセルは、優雅に一礼して立ち上がり、「それでは僕はこれで」と、立ち去ろうとする。



「お待ちくださいませ、エクセル様」


姫君の、鈴を転がすような声に再度引き止められる。
振り向くと、もう姫君は微笑を隠してはいなかった。
にっこりと穏やかな、あどけない優しい微笑み。


「依頼の内容とは別件になってしまいますが、いくつかお頼み申し上げたいことがございますわ。
 重複して、お仕事としてお引き受けしてはくださらないでしょうか。頼もしいよろずや様」

「おや、信頼されているのならば、こんなに嬉しいことはありませんよ。何でも申し付けてください。責任を持ってお力を尽くしましょう、愛らしい姫君様」


翻りかけた御簾が、立ち止まったエクセルの手前で揺れる。
その向こう、星の見えない天には、円なる夜の主が、金色に輝いて彼らの会話に聞き耳を立てていた。


「私の親友、菫青の君は・・・ルルーナは、現在ユグドラーシルで『パンドラ』を研究しているそうです。・・・エクセル様、『パンドラ』はご存知でしたでしょうか」
「・・・ええ、それなりに」
「よければ、彼女の研究にお力添えを。・・・きっと、貴方のお知りになりたいことも幾分かわかるのではないかと思いますわ」


姫君は、袖で口元を隠して微笑んだ。


「それともう一つ・・・・・・ここをお立ちになる前に、どうか、お会いになっていただきたい者達がおりますわ。よければ、彼らの手助けをしてやってはくださいませんか」
「お会いに・・・僕でよろしいのですか」
「ええ。そう身構えることはございませんわ。一度、エクセル様もお会いになった者達です」


ころころころ、と、無邪気な笑い声が、美しい錦の袂の合間からこぼれた。












*    *    *
















暗黒の夜。
無音の闇。

・・・濃紺の空。



俗に言えば、”草木も眠る丑三つ時”。
そんな深夜に、眠らず動く影。息を潜めた人の気配が、一人・・・二人。


夜闇の中に浮かぶように、真白い小さな手が差し出されていた。
その者が来ている衣も、雪のような真白。夜の雲のように、淡くおぼろに、”白”が浮かんでいる。
ただしその髪と瞳は、闇よりも夜よりも深い、底の無い漆黒。



きつく唇を引き結び、真剣な眼差しで凝視するのは、その手にゆだねる、ただ一点。
白く、小さな指の先。


緋色の綾紐でぶらさげた、小さな六角形の鏡が、ぷらぷらと不安そうに揺れていた。



「まだか」
「まだ・・・」




ひそひそと交わされるささやき声が、音の無い夜風の合間をすり抜ける。
声は彼女の下から聞こえた。
彼女もまた、息よりもかすかな声でそれに答える。


「うーん・・・」
「・・・悠里、まだか・・・」
「・・・少し風向きが悪かったかもしれない」
「人をここまでつきあわせておいて、今更そういうこと言うか貴様・・・・・・」



ざわざわと、木の葉が揺すられる不穏な音がする。
ささやきあう声も、やや不穏な声音がする。


「いや・・・だってさぁ、真凪ちゃん・・・・」
「そしていつまでこうしろと」
「・・・おわわっ!」
「わっ?!」



 ずてーーーん


重いものが、土の上にひっくり返った音がした。
・・・正確に言うと、人間二人がひっくり返った音。
肩車、失敗。


地響きにつられて、ぱらぱらと木の葉が頭上から降ってきた。
みみずくの、ホロホロとさえずる声に笑われた。


「あのなぁ・・・悠里・・・」
「ご、ごめん、真凪ちゃん・・・・・・」



琥珀色の瞳に睨まれて、小さな肩がしょぼんとすくんだ。


「それで・・・どうだった、占で何か見えたか」
「ううん・・・変に気が乱れてる感じで、何もつかめない・・・」


白い水干の少女は、名を悠里と言う。役職は陰陽師。この国で言う魔導師の任を司る者。
齢十三という、まだ身も心も未熟な若子であるが、秘める力は、四連邦が定めた星階級の位に値する。


「そうか・・・悠里、やはりお前でも難しいか・・・」


その悠里と話している少年――藤色の着物に、足結を結んだ凛々しい浅葱色の袴姿。黒鋼のような髪の合間から覗く瞳は、鷹の眼のような琥珀色。
名を真凪。廷内においては、近衛司の役職についている。
悠里にとっては兄のような存在だ。悠里に陰陽の理を教えた師は、真凪の実祖父だった。


「気配がすごく遠いのはわかる・・・多分。だから、もうこの国にはいないんだと思う。
 ・・・せめてもう少しでも、どの方角のどのくらい離れたところにいるのかつかめたら、何か手がかりになるかもしれないと思うんだけど・・・。
 でも、まるで風に雑音が入ったような感じで、感覚がはっきりしないの・・・・」


鏡に結わえられた綾紐を握る手に、ぎゅ・・・っと力がこもる。
月の光を照り返して、流れる陰の力を映す白鏡。
夜風に行方を尋ねても、見定められない探し人の影。
・・・・・・いや、彼は『人』とは呼べないのかもしれない。だから鏡が探しきれないのかもしれないのだと、きっと二人とも気づいている。
それでも探さずにいられない。
突然去ってしまった彼に、どうしても再び会いたいから。



「君達が探しているのは、あの時の鵺のことかい?」


暗闇の中から声がした。

「誰だ」


真凪が随分と険しい声を出すので、悠里は再び身をすくませた。
とっさにすがるように真凪の衣の裾をつかんだ。不穏な声に怯えたわけではないが、真凪がすぐさまその声の元へと斬りかかっていってしまいそうな気がしたのだ。
この声は怪しい者ではないと、悠里は気配で察していた。

木立の陰から現れたのは、右目を眼帯で覆った青年。白い月明かりの下へ歩み出て、柔和な微笑を浮かべる。
すらりとした長身、赤茶の髪、緑の瞳。そして何より、その衣服。この国の者ではないことは一目でわかる。
いや、身柄を推測する必要は無い。悠里も真凪も、以前に一度彼と対面している。
北方の国より、竜の背に乗り空を渡って訪れた万屋。

エクセルは、剣呑な警戒心を逸らそうとして、わざとややおちゃらけた言葉としぐさをとる。
もっとも、レフラに言わせれば、普段からそういうカルそうな調子だからイマイチ信用置けないんだ、ということなのだが。


「ごめんごめん、覗き見してたわけじゃないんだ。何か変わったことしてるなと思って。それって、この国の魔術かい?」

「魔術? これは占よ、陰陽の・・・」
「悠里、余計なことをしゃべるな。他国の者に教える必要は無い」


(あらら・・・、こりゃ、嫌われちゃってるなぁ)


二人の会話と態度に、エクセルは内心で苦笑する。
それがこの国の国民性なのだろうと考えれば、それまでのことだけれども。


「万屋、エクセル殿と御見受け奉る。かようなところへ参ずるはいかならむ。道など違えましかば、吾が案内仕らむ」
「いやいや、美弥乎姫に、君達と会ってくるように言われてね」


またしても耳にするヤマト古語の響きに苦笑した。
少しばかり奇妙な言い回しの、この国の言葉。
今ではほとんど形式的にしか使われないようだ、とすでに悟ってはいるが、なぜ体裁を保とうとするかのようにわざわざその口調を使うのか、異邦人には理解しかねる。
どうか心を許して気楽に話しかけてほしいものだ。その方がこっちも相手も楽だろうに。


「よければ、君達が探している人について、僕にも教えて欲しいんだ。何か協力できるかもしれない」

「ほんと?!」



素直に飛びついてきそうだった悠里を、真凪が横からそっと手のしぐさで制した。


「・・・貴殿は、鵺を探すことはできるか」
「できるよ」


緑色の目が微笑を深めて細くなる。
エクセルの言葉は即答だった。



「そもそも君達は、君達が鵺というものがどういうものか知っているかい?」


この国で言う物の怪の類。四足のものを鵺と呼び、二足で歩くものを鬼と呼ぶ。
アルティメイトの大部分では、『ゴブリン』あるいは『ボギー』という呼び方が定着している。つまり、人でも獣でも無く、星の光を預からずして生まれてきた生き物。
その多くは地下に住む。
三層に分かれた世界の一番暗い地下。
地表から順に、天仰層・白明層・鉱聯層の三つの住民区。
アルティメイトの地上にある住民区を『天仰区』、その一層下に広がる最も人口の多い住民区を『白明区』、更にその下の住民層を『鉱聯区』と俗に呼ぶ。
だが実はそれよりも更に深い地下がある。
それが『黒耀界』。魔物が住む地層だ。
『ゴブリン』達はそこから沸いてくる。
星の光を受けない生き物は、あのような醜い異形になるのだ。
魔術師達が主にそれを退治する。魔物は光を嫌い、また、ねたむ。


「この国にもゴブリンはいるんだなと思ったものだけど・・・まぁそりゃあいるよね。きっと地下に国境はないだろうし。それにしても僕が不可解だったのは、そのゴブリンが、『人に化けて人として普通に紛れていた』ことだったよ。そんなの見たことがなかった。あれはどういうことだったのだろう」


悠里と真凪の二人は・・・それぞれに顔を曇らせた。


「風丞は、宮の近くで行き倒れてるところをあたしが介抱したの」
「その時から彼は人だったと?」
「・・・うん」


悠里はうつむく。後ろめたさがあるのだろう。仮にも、彼女は陰陽師。彼が鵺だと、気配で気づかなかったはずがない。


「人じゃない気配はあったけれども・・・でも信じられなかったの。鵺が人の姿をするなんてこと」
「うん。それだろうね。僕も、異例のことだと思うよ」
「万屋殿、貴殿らの国では鵺や鬼はどのように退治する」
「普通に魔法で祓うだけだよ。いや、退治の方法は問題じゃない。なぜ『人の姿に化けた鵺が現れたか』だ」

人の言葉を話すゴブリンはいる。それらの知能の高いゴブリンを、普通のものと区別して『ボギー』と呼ぶ。

「・・・鬼は妖術で人に化けると聞くこともあったが」
「いや・・・真凪ちゃん。それって狐?」


「確かに幻術を使う魔物もいる。でも・・・先日のあれを見た限り、人の姿から本来の姿に戻ったときに、彼自身の妖術の気配は感じなかった。僕が思うに、あれは・・・魔術師の力を借りて人の姿に変化していたのではないかと思う」


エクセルがずっと気にかかっていた理由はそれだ。そうとしか思えなかった。
だとすると、誰が、何のために?


「君達に協力しよう、月の国の陰陽師達」


そしてエクセルは右手を差し出す。


「君達の探し人の手がかりを探すことに、僕も協力しよう。そして、僕も手を貸してもらいたいことがある。どうしても気にかかっていることがあるんだ」


「それって」「断る」



・・・あら?



少女と少年が同時に口を開いたが、聞き取れたのは、冷たい声音の拒絶の言葉。



「まなぎちゃん・・・・・・・」



悠里は興味を示したように見えたが、真凪のほうは眼が冷たい。
非難するように横から悠里がじっと視線を送っているが、真凪は無視している。



「万屋殿、以前の鵺騒動で貴殿らに協力を願ったのは、美弥乎姫の依頼に際して、貴殿らの腕を見たかったがためのもの。この件は美弥乎姫の依頼ともまったく関わりは無い私的なもの。すなわち、貴殿らと関わる理由も必要も無いし、関わらせるつもりも無い」
「へぇ。もし、僕が協力を頼みたい事柄が、その美弥乎姫様と関わりがある内容だとしても?」
「・・・・・・何?」



少し、真凪の目つきが変わった。
頑なに『他国の者』と見て一線を敷く距離を測る眼から、少し内に入って様子を伺う態度が見えた。


彼はきっと、万屋のエクセルやレフラの腕を信用していないわけではない。
ただ、この国の人は『公』『私』を明確に分けたがるくせがある。
自分の仕える姫君からの依頼を預かった万屋は、言わば、上司の取引先。
そんな彼らを、私事に関わらせたくは無い、というのが今の拒絶の中の本音だろう。

ならば、こう示せばいい。
これは『公』に関わることであるのだと。


「美弥乎姫は、何か大きな隠し事をしているね。たとえば、『螺旋の指輪』。あれがどういうものか僕はよく知らない」


そして姫君はおそらく、『パンドラ』と呼ばれるもののことを知っている。
何か関わりがあるに違いないということは、容易に見て取れる。



「僕の言い方が回りくどかったね・・・申し訳ない。もっと明確に言おう。君達に、教えてほしいことがあるんだ。力を貸して欲しい。まだ僕には情報が少なすぎる。
 これはきっと、君達の国そのものに関することだ。君達も、美弥乎姫が成さんとしていることは気にかかっているんだろう?
 もしかしたら、この世界全てに関わることかもしれないんだ」














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